2015年11月1日日曜日

長浜統合新校の校歌・校章案


本年(2015年)3月、滋賀県議会は長浜統合新校の校名を「長浜北」とすることを含む県立高校再編に関する条例改正案を可決しました。その後、長浜統合新校設置懇話会が再開されたものの、統合新校の校歌と校章をめぐって紛糾し、早くも中断。以後、同懇話会は一度も再開されないまま現在に至っています。


長浜統合新校の開設は来年(2016年)4月に迫っており、わずかに残り5か月の期間しかありません。このままでは、来年の統合新校開校に当たり、生徒諸君は歌うべき校歌もなく、仰ぐべき校章もないという状態での開校となりかねません。将来的に中高一貫化も見据えた地域社会の人材育成と高等学校教育の中核となるべき長浜統合新校がはじめからこのような有様では、長浜高校及び長浜北高の在学生諸君、さらには、希望を持って入学してくるであろう新入生諸君に対して、誠に面目ないと言う他ありません。


統合新校の校名については、県教育委員会が広く一般に校名案についてのアンケートを実施したことがありました。これは、あくまでもアンケートであって、校名を決定するプロセスにおける参考意見という位置づけでした。同様に、統合新校の校歌と校章案についてのアンケートまたは公募があるかは不明ですが、新校開設に向けた動きが再開されることへの願いを込めて、懸案の校歌・校章について、以下、私案を提示したいと思います。






長浜統合新校の校歌及び校章についての私案



1.校歌について


私案: 現在の長浜高校の校歌を長浜統合新校の校歌として、引き続き用いる。


理由: 長浜高校の校歌は「緑ゆたけき長浜の 古き歴史に 名をとどむ 平方庄の 学び舎の...」と校地(長浜市平方町)の地名を歌詞に織り込んでいる。この校歌は「平方」の校地が、古くは平安朝にも遡る由緒正しい土地柄であることを教えるとともに、中世に一帯を領した名門豪族下坂氏、並びに近江申楽上三座のうちの1つ下坂座との縁を持つことをも想起させるものである。統合新校は、現在の長浜北高の校地に仮移転した後、平方町の現長浜高校校地に校舎を新増築する予定である。統合新校の校地が歴史的かつ文化的に豊かな土壌に根ざしている事を歌うこの校歌こそは、長浜統合新校の校歌としてまさしくふさわしいものであると言えよう。

長浜高校校歌はこちら



2.校章について


私案: 現在の長浜北高の校章を長浜統合新校の校章として引き続き用いる。


理由: 現在の長浜北高も長浜高校も、その校章に長浜興隆の恩人である秀吉公の家紋「桐」を意匠化したものを採用している。長高、北高いずれの校章も美しく独創に富むものであるが、長浜北高のそれは桐の葉を三角形に組みあせた中に「高」の字をあしらい、その構成の妙は県下各校の校章に抜きん出たものであるように思う。さらに、北高の校章における桐の葉の図案は適度な抽象化と写実のバランスがすばらしく、昭和27年/1952年の発表以来半世紀を経るも、全く古さを感じさせない。この校章こそは、長浜統合新校が発展してゆく未来においてもなお斬新さを失わず、学校のシンボルとして機能しうるものであり、新校の校章としてふさわしいものであると考える。

長浜北高校章はこちらから確認できます。



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今春、長浜統合新校の校名を「長浜北」として県議会に推薦することを決するに当り、県教育委員会は「長浜北」の校名には「長浜」と「長浜北」、両校の校名が息づいていると説明しています。まさにその言うとおり、統合新校には現長浜高校と現長浜北高の両校が息づきつつ、両校が引き続き存続してゆくものとして設立されるのです。長浜統合新校は、現長浜高校であるとともに、現長浜北高でもある。長浜高校も長浜北高も滅びはせず、長浜統合新校たる長浜北高として、引き続き続いてゆくのです。


であればこそ、長浜統合新校は現長浜高校と現長浜北高を構成している「何か」を最大限継承しなければならないと思います。
それは、何よりもまず、両校の歴史であるとともに、学校創立の精神に他ならない。ゆえに、学校創立の精神を体現する校歌と校章もまた、長浜統合新校に引き継がれねばならない、そう思います。2つの学校が1つになる以上、校歌と校章を1つにせねばならないのであれば、両校譲り合いつつ、どちらかのものを引き続き使うようにすべきだと思います。それこそ、長浜高校と長浜北高の両校が息づく長浜統合新校たる長浜北高のあるべき姿ではないでしょうか?


しかしながら、一部の方々には根本的な誤解があるように見受けられます。その方々は言われる、「長高も北高もともに無くなり、全く新しい別の学校ができる」と。そして、「かつて、長浜北高の統廃合反対運動を終えるに際し、長浜北高同窓会と長浜高校同窓会は『両校ともに消滅する。新しい学校のために協力しよう』と申し合わせた」とおっしゃる。
しかし、きっぱりと、こう言わなければなりません、「長浜統合新校について、そのような捉え方は間違っている」と。


長浜高校も長浜北高も消滅するわけではないのです。全く新しい別の学校などできるわけがない。校地は移り、校舎は新しくなり、便宜的に「新」長浜北高と呼称することはあっても、それは、全く新しい別の学校などではなく、長高と北高がともに存続し続けるものとしての統合新校長浜北高なのです。数年前に一部のメンバーが取り交わした申し合わせなど、両校の歴史の厚みと現時点において両校が持っている存在感を考えるならば、何ほどの意味があるでしょう。


本年3月の県議会決議を前に、長浜高校同窓会の方々は、長浜高校の歴史と現在を否定されるかもしれないという危機感に突き動かされて、昂然と立ち上がり、全力を尽くして抵抗された。その勇気と信念は敬意に値するものです。その信念とは、自分たちが青春時代を過ごした学校の歴史が無になることがあってはならないという強い思いです。その思いは私たち長浜北高の卒業生も同じ。そして、私たちは、私たちの学校が「まったく無くなって、別の学校ができる」など言う事を認めることはできない。数年前の統廃合反対運動での尽力に対する感謝の念は変わりませんが、そんなことを言っている人たちには「No」と言わなければならない。


重ねて申し上げます。長高も北高も消えてなくなるのではないのです。両校ともに滅びません。長浜統合新校は別の学校ではない。長高と北高は長浜統合新校として、両校の歴史を継承しつつ、未来に向けて存続し、さらに発展してゆくのです。
だからこそ、長浜高校と長浜北高、2つの学校を形成している要素が1つでも多く統合新校に引き継がれねばならないのです。それらに仮託された精神とともに。たとえば、先人の思いと創立の精神のこもった校歌と校章。だから、長浜統合新校の校歌は現長浜高校の校歌、校章は現長浜北高の校章、そういう形での結合が合ってもいい。いや、そうあるべきです。


私たちの学校が「全く無くなって、別の学校ができる」というのは、ある意味、安直な捉え方であり、安易な解決方法であるとも言えます。「別の新しい学校」だから、すべて新しいものを採用すればいいわけだから、意見は割れない。調整で頭を悩ますことにはならない。しかし、そんな安易なやり方でいいのでしょうか?ともに実績のある2つの学校が1つになるわけだから、様々な困難や問題があるのは当然なのです。それを乗り越えなければならない。それは、厳しく、また、時間もかかることだろうけれど、そうして費やした労苦が、大きな意義を持つ。


さしたる価値のないものについてのこだわりは無益でしょうが、大切なものは何としても守らなければならない。価値あるものはあくまでも追い求めなければならない。長高と北高、その歴史と実績、いずれも価値のあるものです。たやすく、あきらめていいようなものではない。こだわり、悩み、時間を費やす価値があるものだと思います。
そして、苦しみつつ産み出されたものは力強く成長する。長浜統合新校の統合過程がスムーズに行かないのは、誰もがこの問題を真剣に考えているからなのです。その真剣さ、そのこだわり、執念、固執、困難と苦労こそは、長浜統合新校が将来発展するにあたっての豊かな土壌となるに違いありません。


最後に、長浜高校と長浜北高、両校の同窓会の統合についても提言したいと思います。ともに、地域社会を担う優れた人材を執行部に置く両校同窓会(桐友会と桐映会)は、力を合わせて長浜統合新校を支えてゆくべきです。名簿の発行は同窓会の重要な役目だけれど、無粋なのぞき見趣味を満たすために名簿があるのではない。両校あわせて、2万を優に越える会員卒業生の連携と交流を促し、全員の成功の一助となるのが同窓会の望ましい姿だと思います。そうすることでまた、学校を力強く支えることもできる。古い楽器やすりきれたマットを更新する援助もできる。さらに、同じ学校の同窓生という豊かな絆は、地域社会発展の重要な礎のひとつとなることでしょう。
私たちの愛する高校と美しい郷土がさらに発展してゆくためにも、長浜高校と長浜北高の統合存続が成功し、両校の同窓会が一体となって活動することを心より願ってやみません。
以上





2015年4月21日火曜日

【 事例研究: 他府県における公立高校の統廃合 】


大阪府立高槻南高等学校のケース。


この学校は中堅上位の優良校で2000年度の中退率は0.1%以下と大阪府下で最小でした。また、部活動も活発で体育系は大阪府の公立高校でトップクラスに位置していました。特に、軟式野球部やサッカー部は顕著な実績を上げており、私立の強豪校がひしめく大阪府にあって、公立ながら全国大会に出場するなどしていました。
さらに、国際交流もPTAと一体になって取り組み、大阪府下でも先進的でした。
ところが、2001年になって大阪府の高校再編成計画に基づいて統廃合の対象となり、反対運動が大きく広がります。
反対運動は訴訟にまで至りますが廃校の決定を覆すには至らず、2005年3月、最後の卒業生を送り出して廃校。


以下、高槻南高校が廃校に至る経緯をまとめてみました。

2001年8月30日、大阪府教育委員会は、大阪府立高槻南高校と同府立島上(しまかみ)高校との統合、両校を廃校とし新校を設置する高校改革案を発表しました。
これを受け、高槻南高校では、廃校反対の声が高まります。
廃校反対運動は生徒会を中心にPTA、教職員の他、多数の高槻市民にも広がり、わずか2ヵ月半で16万人を越える廃校反対の署名が集ったそうです(当時の高槻市人口は約40万人)。
とりわけ同校の生徒らは、生徒会を中心に、放課後に駅前で廃校反対の署名を自主的に集めたり、大阪府教育委員会に対して廃校反対の請願をおこなうなど、懸命に廃校反対の運動を行いました。
しかしながら、廃校の方針が覆る事はありませんでした(2001年11月16日の府教育委員会議で廃校案を正式決定)。

そこで、PTA 役員と学校内外の教職員を中心に「高槻南高校の存続と発展」を目標に「高南応援団」が結成されます。

2002年1 月10 日、34名の保護者の賛同を得て行政不服審査法に基づき、廃校(募集停止)処分の取り消しの申し立てがなされました。

2002年2月22日、不適法であるとして上記の申立て却下。

2002年10月24日、高槻南高の生徒527名が大阪弁護士会へ人権救済申し立て(2004年3月29日、大阪弁護士会長名で要望書が府教委などに送付される。同要望書は生徒が請求する「人権侵害」の認定は行なわなかった)。

2002年12月までに、高南応援団は市議会への要請や府議会への請願を行なうと共に、府教育委員会への高校改革関係の行政文書の情報公開請求、同委員会への公開質問状の提出などの取り組みを実施(上記情報公開請求に対し府教委は非公開の決定)。

2002年12月、大阪府議会は高槻南高校を廃校とする条例改正を決議。

2003年3月28日、高槻南高の関係者(原告59名、121名の共同親権者の署名賛同)は、大阪地裁に大阪府と府知事を相手どって、廃校の取り消しと損害賠償等を求めて訴え提起。

提訴以来1年半に渡り、8人の常任弁護士を中心に総勢29名の弁護士が原告側で訴訟に関与。公判は8回に及び、原告となった高槻南高の生徒やOBも法廷に立つことになりました。この間、大阪地裁への請願署名も行なわれ、1万名の署名を集めました。

2004年9月10日判決。結果は、原告の訴えを全面的に退けるものでした。

判決の要旨は、概略、以下の通りです。

① 公立高校の統廃合を含む大阪府の方針と計画は、教育基本法の理念や学校教育法の趣旨等に反する不合理なものであるということはできない。

② 平成15年以降、高槻南高校に在校する子ども(2、3年生)は学科教育に止まらず、クラブ活動・学校行事等の場面で少なからぬ不利益を蒙ってはいるが、種々の手当をしており、格別の支障が生じている様子は証拠上うかがわれない。

③ 子どもの権利条約第12条は、個別の施策の決定の場面において生徒らの意見表明等の手続的権利を具体的権利として保障したものではない。

原告は控訴を断念し、判決は確定しました。

高槻南高校のケースは、類似事例が他にないことから、地裁判決とはいえ重要な先行判例と言えます。
ここで司法が示した上記の判断①~③は規範的意義を有すると言えるでしょう。
高槻南高大阪地裁判決は、滋賀県における統合問題を考えるにあたっても無視できない事案だと思います。


結果的に、2005年3月、高槻南高校は廃校になりました。


なお、廃校に先立つ2003年、大阪府立高槻南高等学校は大阪府立島上(しまかみ)高等学校と統合され、大阪府立槻の木高等学校が開校します。
高槻南高と島上高校は2003年度以降の新入生の募集を停止、後身の槻の木高等学校には、旧・島上高等学校の校舎及び敷地が引き継がれました。


その後、高槻南高校の校舎がどうなったかですが、大阪府下の公立高校の中でも屈指の大きさだったグラウンドが開放されるなど、廃校後も地域住民らによって利用されました。
また、廃校後の校舎は映画撮影の舞台にもなります。2007年3月から5月にかけて、映画『クローズZERO』(同年公開)の撮影が行われています。他にも、『ゲゲゲの鬼太郎』や『初雪の恋 ヴァージン・スノー』、『僕の彼女はサイボーグ』等のロケ地にもなったそうです。


このように廃校後もなおしばらくは使われた高槻南高校の校舎でしたが、2008年3月31日をもって大阪府から売却され、住宅地としての再開発が決定。同年8月末から本格的な施設の解体工事が始まります。
9月には体育館が完全に取り壊され、12月には総ての建造物の解体が終了。
そして、2009年~13年にかけて全223戸の大住宅地が完成して今に至ります。

以上、参考までに高槻南高校が廃校に至る経緯をまとめてみました。


全国的に少子化の影響は深刻で、各地で学校が次々とつぶれています。
統合して新しい学校ができるのならまだしも、完全に消滅する学校も少なくありません。
この先、少子化は更に進みます(2018年ショック)。今後、さらに、第2次、第3次の公立高校再編が起きるかも知れない。その際には、「統合」ではなく「廃校」、即ち完全消滅する学校もあるかも知れない。


統合問題にゆれた母校、長浜北高校ですが、その根本にある少子化問題は、統廃合の対象になった学校の関係者のみならず、地域社会を掘り崩し、いずれ遠からず国家の土台をも揺るがす大きな問題です。今や、国家的惨事が刻一刻と進行しているわけです。
出産優遇策、マタニティハラスメント企業への指導、待機児童の解消、若年非正規雇用の逓減策など政府のみならず自治体も早急な対応を講じるべきです。
そして、私たちも強い声を上げなければならない、改めて、そう思います。



2015年3月25日水曜日

滋賀県立高校再編計画と長浜統合新校について(2011年~現在までの動き)



3月16日、滋賀県議会は、長浜統合新校の校名を「長浜北」とすることを含む「滋賀県立高校再編計画」関連の条例改正案を可決承認しました。


ここで、県立高校統合を巡るこれまでの経緯を振り返ってみたいと思います。


2011年/平成23年7月、滋賀県教育委員会は「滋賀県立高等学校再編基本計画案(以下、基本計画案)」をリリースしました。急激に進行する少子化がその背景にあります。即ち、県内の中学校卒業者数は、1990年/平成2年3月の20747人をピークに減少を続け、2012年/平成24年3月の卒業者数は14226人にまで落ち込みました。実に、6521人もの減少です。基本計画案の発表に先立ち、県教委は、2008年/平成20年に「県立学校のあり方検討委員会」を設置、さらに、2010年/平成22年には「第23期滋賀県産業教育審議会」を開いて、県立高校の改編に向けて準備を進めていました。


基本計画案では、「特色ある学校づくりの推進」と「学校活力の維持向上」を基本に、1学年6から8クラスを標準規模としました。学級数の小さな高校では部活動や学校行事等で制約が生じ、学校活力が低下するというのがその理由です。その上で、県下全日制高校46校のうち4校を対象とする県立高校の統廃合を打ち出しました。私たちの母校・長浜北高校はその4校の内の1校になってしまいます。長浜北高と長浜高校は、2014年/平成26年度に統合される予定であることが明らかになったのです(他に、彦根西高校と彦根翔陽高校も同年度に統合予定として発表されました)。


「北高は長浜高校と統合され、新校の校地を長浜高校に置く...」、県教委のこの案は両校の関係者を驚愕させました。北高の卒業生からは母校と校舎がなくなるという失望感から強い反発の声が上がります。計画案が発表されるや北高OB/OGを中心に「長浜北高を守る会」が発足。また、長浜市長や市議からも唐突な計画だと反対意見が出され、県教委に基本計画案の白紙撤回を迫りました。彦根市からも強い反対意見が出たこともあって、平成23年10月の県議会は「少なくとも今後1年以上の時間をかけ、更に慎重な検討を続けるよう、強く求める」との決議を全会一致で行いました。


広範に及んだ反対運動と県議会の議決を受けて、2011年/平成23年11月、教育委員会は県立高校再編計画策定を1年延期することを決定しました。一方、長浜市は県教委に市民の意向を盛り込んだ提言を行うため、同年12月に「長浜の未来を拓く教育検討委員会」を設置、翌2012年/平成24年6月、再編計画策定の手続きに関する第1次提言を行いました。さらに、9月には、新校のビジョンを盛り込んだ第2次提言を発表しました。


2012年/平成24年10月1日、再度、県教委は、県立高校再編計画案を発表します。統合される4校に変更はないものの、統合時期を原案より2年遅らせ、2016年/平成28年度としました。長浜統合新校の体制については、1学年8クラスの普通科単独の進学校で、英語教育のモデル校とすることが発表されました。さらに、この案には、開校後5年を目途に運営実績を見て「中高一貫教育校」を設置する構想も含まれていました。校地は現長高の敷地を当て、校舎は新増築の方針です。この新たな案は、かなりの程度長浜市の提言を取り入れたものでしたが、市が要望していた校地(JR長浜駅北の近江セーレン工場跡地)は認められませんでした。県教委は県内各地で県民や保護者に計画案の説明会を実施。12月20日、臨時教育委員会は県立高校再編基本計画を正式に決定しました。


その後、県教委は、長浜統合設置懇話会を設置し、北高及び長高の関係者を含むメンバーによって統合新校の校名・校章・カリキュラム他をめぐる議論を行ないます。ところが、長浜統合新校の校名について、これを「長浜北」とする県教委の推薦案が発表されると、長高関係者は強く反発し、同窓会を中心に校名案の白紙撤回を求める動きに出ます。長浜統合新校の設置懇話会も中断を余儀なくされます。旧校名を採用すべきではないという長高側の主張に対し、長浜統合新校の校名「長浜北」は旧校名ではなく「長浜」と「長浜北」の校名が一体となったものであるとの主張も展開されました。紆余曲折を経て、2015年/平成27年3月、滋賀県議会は長浜統合新校の校名を長浜北とする案を含む県立高校再編に関する条例改正案を可決しました。

その後、懇話会が再開されるものの、校章・校歌をめぐる議論でまたもや紛糾し中断。懇話会での軋轢は2016年開校目前の統合新校の先行きに暗雲を感じさせる状況となっています。


以上、私たちの母校長浜北高と長浜統合新校をめぐる直近数年間の経緯を確認してきました。
改めて思うに、本当に大切な事、あるいは、わたしたちが立ち返らなければならない原点は、在校生こそが主役なのだと言う事以外にありません。なぜなら、今まさに母校の歴史を刻んでいるのは彼ら彼女らに他ならないのですから。この原点を忘れる事無く、新しい母校で学ぶ在校生が優れた教育をうけ、その人格を陶冶し、母校が輩出してきた多くの優れた人材にも劣らない社会人となる、そのための確かな母体となる学校を作ってほしいと思います。

2016年/平成28年にスタートする統合新校が、母校百年の伝統をしっかりと受け継ぎ、更に飛躍し発展するよう切に願ってやみません。

2015年3月17日火曜日

校名は「長浜北」で最終決定


2015316日、長浜統合新校の校名は「長浜北」で最終決定となりました。

滋賀県議会本会議の議決結果です。




データ出典は県議会のウェブサイトより


平成272月定例会議 賛否状況(316日)はこちらから確認できます。
                               ↓







長浜統合新校の校名を「長浜北」とする内容を含む県立高校再編計画に関する第49号議案(滋賀県立学校の設置および管理に関する条例の一部を改正する条例案)は全会一致で可決されました。


なお、表決に加わらなかったのは山田和廣議員。


山田議員は文教・警察委員会で、長浜統合新校に関し「校名に反対している人に対して、今後どう説明し納得してもらうのかを具体的に聞かないと賛同できない」などとして、継続審査の動議を提出していました(動議は賛成少数で否決)。







2015年3月5日木曜日

統合新校と県議会・委員会



3月6日、現在会期中の滋賀県議会、文教警察常任委員会で長浜統合新校の校名を含む県立高校再編計画に関する提案が付議されます。

正確に言うと、県立高校再編計画に関する提案は第49号議案(滋賀県立学校の設置および管理に関する条例の一部を改正する条例案)。

49号議案は県議会のウェブサイトからも確認できます → こちら。 

49号議案で言及されている別表2。サイトで確認されたい方は → こちらから。


「滋賀県立学校の設置および管理に関する条例」第3条は「高等学校の名称および位置は、別表第2のとおりとする」と定め、県立高校の名称と位置を列記した一覧表(別表第2)を付しています。

この別表第2の記載内容を変えることで、県立高校の名称と所在地が変わるわけです。


文教・警察常任委員会のメンバーを確認してみました。湖北出身の議員さんは一人もいないですね。彦根まで含めてもゼロ。

勘ぐりにすぎませんが、県立高校の統合が彦根以北だったのは、このあたりのことも見すえてだったかも...

ま、今さらの話です。

文教警察常任委員会のメンバーは以下の通りです。



委員長 生田邦夫議員
    当選回数:2期
    所属会派:自由民主党滋賀県議会議員団
    選挙区:湖南市

副委員長 柴田智恵美議員
    当選回数:2期
    所属会派:チームしが 県議団
    選挙区:大津市

委員 佐藤健司議員
    当選回数:1期
    所属会派:自由民主党滋賀県議会議員団
    選挙区:大津市

委員 有村國俊議員
    当選回数:1期
    所属会派:自由民主党滋賀県議会議員団
    選挙区:近江八幡市

委員 井阪尚司議員
    当選回数:1期
    所属会派:チームしが 県議団
    選挙区:蒲生郡

委員 九里学議員
    当選回数:2期
    所属会派:チームしが 県議団
    選挙区:栗東市

委員 奥村芳正議員
    当選回数:2期
    所属会派:自由民主党滋賀県議会議員団
    選挙区:草津市

委員 宇賀武議員
    当選回数:3期
    所属会派:自由民主党滋賀県議会議員団
    選挙区:東近江市

委員 山田和廣議員
    当選回数:3期
    所属会派:自民党 颯新の会
    選挙区:草津市




審議の行方を見守りましょう。





2015年1月21日水曜日

滋賀夕刊投稿への反論 (長浜統合新校の校名をめぐって)



ここ数日、滋賀夕刊に長浜統合新校に関する複数の投書が寄せられ、滋賀夕刊はそれらを随時紙面に掲載しています。
問題の投書は以下1~3。これらに対して、反論します。




1.滋賀夕刊 2015年01月13日付け紙面に掲載された投書


統合新校の校名が難航しているようです。一生懸命考えて頂くのも結構ですが、まったく無関係の私の立場からみると、いささか温故知新にこだわり過ぎかと思われます。
これから学ぶ頭の柔らかい青少年達が親しみ易く、素直に納得のゆく校名であること、単に多数決でなく少年達の気持ちになって決めてやってください。岡目八目の諺があります。大人のエゴにこだわり過ぎないようお願いします。


⇒ 全くその通りです。ただし、滋賀県教育委員会の決定は多数決によるものではありません。県教委のパブリックコメントで、統合新校の公募校名案として「長浜北」が多数であったことについての言及はあるものの、それをもって新校の校名を選択したわけではないことは県教委が再三明言しているところです。同様に長浜統合新校設置懇話会の5回にわたる校名についての審議を踏まえた結論も出席者の多数決によるものではありません。
「大人のエゴ」という御指摘もまさに的を得たものと思います。適正手続を経た決定に対し、その手続を尊重しなかった当事者が今になってゴネている。この投稿者さんの言う「大人のエゴにこだわり過ぎないように」と言う言葉をよく噛み締めてもらいたいものです。




2.滋賀夕刊 2015年01月13日付け紙面に掲載された投書


旧校名は除外を
私は○○高校出身ですが、今回の新校の校名選定についてやり方がフェアでなく、大変怒りを覚えます。旧校名を選択肢に含めてはいけない。それは数優先の論理から言えば、古い歴史を持つ方が圧倒的に有利だからです。長浜北への決定は「吸収合併」と同じ。「旧名」にしたのなら長浜北高のみが「昔からずっとあった」ということになり、消滅したもう一方は完全否定、永久埋没といえ悲しいことです。
行政実務上の「合併」は優先すべきかも知れませんが新校名は「心の古里」的な問題で性質が異なります。両校の関係者に禍根を残さない形で、新校がスタートすることを望みます。


⇒ この人も根本的に誤解しています。長浜統合新校設置懇話会における「校名」案の決定に際し、県教育委は、多数決原理を採ってはいません。1の投稿について書いた通り数の論理というのはもとより関係ないのです。また、「長浜北」の校名を「旧名」と断じていますがこれも、県教育委員会の決定理由を読めばそうではないことがわかります。長浜統合新校の校名を選ぶに当たり、滋賀県教育委員会は、「長浜北」と「長浜」の両校の校名が息づいている名称として「長浜北」を選んでいる。この校名は旧校名をそのまま踏襲したものではなく、新しい学校にまさにふさわしい校名として熟慮の上、選ばれたものです。ここで、「長浜北」という校名は、方位を越えた「新たな意味」を与えられた上で提示されているわけです。
県教委が選択した「長浜北」の校名は、長高の「長浜」でもある。長浜高校が永久埋没ということにはなりません。統合新校は、北高の歴史と長高の歴史、その2つの歴史の流れが合流した大河となって未来という大海へ続いてゆくのです。






3.滋賀夕刊 2015年01月20日付け紙面に掲載された投書


長浜北高の卒業生のひとりとして意見を述べたいと思います。
まず理解に苦しむのは広域化した長浜市の最南端に位置する新高校の名称に、なぜ「北」を付けるのかということです。北高ができた昭和27年当時、旧長浜市内には西高があり、南高があり、従って一番北に位置する高校の名称が北高になったのです。北高になる以前、本校の名称は「長浜高等学校」でした。その以前は「長浜高等女学校」です。北高の名称以前から校名は変遷を重ねているのです。
大事なことは名称ではありません。その中身です。新校名は「長浜高校」で、すっきりしていいではありませんか。それは北高になる前の校名でもあります。統合後の新高校の伝統は、これからこの学校で学ぶ生徒諸君と先生方が、数年、数十年かけて築き上げるものです。私を含めた年寄りの卒業生が、ノスタルジーから校名を残せと騒ぎ立てるのはやめようではありませんか。


まさに正論です。論旨も明快で説得力があります。しかし、県教委が長浜統合校名の校名として選択した「長浜北」という名称は、地理的位置を表わすというよりも、長浜高校の「長浜」と長浜北高の「長浜北」が結合したものであり、両校の統合と融和を表わす一種象徴的な記号として、新たに意味づけされているということを再度強調したいと思います。
また、大局から言えば、すでに、個々の校名案について議論する段階は通り過ぎています。新校の校名を議論するために、滋賀県教育委員会は、過去1年間に5回に及ぶ懇話会の場を設けたのです。今になって「長浜北」の校名を否定すれば、釈然としない北高関係者も出てくることでしょう。結果、無限に問題が連鎖(ループ)しかねません。
そもそも、問題解決と実行が政策担当者である教育委員会の役割なのです。そして、政策実行に当って重要なのは、法的手続き、即ち、適正手続(デュープロセス)に他なりません。滋賀県教育委員会はまさに、デュープロセスにしたがって校名案を「長浜北」と決定したのです。その正当性には非の打ち所がない。さらに、その間に投じられた行政コストと時間、その重みも無視できない。
来月から始まる県議会についても同じ事が言えます。県教委が適正手続を踏まえて選んだ統合新校の校名案について、告知と聴聞の機会は十分に設けられていました。ここで、仮に、県議会が県教委の決定を退けるならば、それは、これまでの適正手続きを否定することであり、我が県会は近代の法治主義を否定した前近代のレベルに退行してしまったということになるでしょう。
滋賀県教育委員会ならびに滋賀県は、どこに出しても恥ずかしくない立派な行政運営をされておられる。今後、問われるのは滋賀県議会の立法府としての鼎の軽重なのです。




以上、長浜統合新校の校名をめぐって、滋賀夕刊が掲載した投書とこれらに対する反論を行いました。
行政の原点は法治主義であり、行政の基本は適正手続に他なりません。長浜統合新校の校名問題では、まさに、わたしたちの社会のあり方の原点と基本が問われているのです。


2015年1月18日日曜日

卒業年次総覧

2016年4月1日、長浜高校と長浜北高が統合し、統合新校としての『 滋賀県立長浜北高等学校 』が発足します。

同年4月1日に入学する生徒達は、統合新校として初の新入生。

そして、2017年3月には、新校としての最初の卒業生を送り出すことになります。

新校としては初の卒業生ですが、彼ら彼女らは、1世紀を超える母校の歴史の中にしっかりと位置づけられねばなりません

そこで、1911年から2017年までの卒業生(見込・予定を含む)の一覧を作成しました。

改めて一覧にしてみると、我が校史の長さと厚みに圧倒される思いです。

深い感動を覚えました。

改めて!

100年を超す母校の歴史を、未来へ!




2015年1月9日金曜日

母校の呼び声 Kitakou Calling

昭和2年(1927年)3月に母校をご卒業された大先輩が校友会誌に寄稿されたエッセイをリライトしてみました。

「...私の大切な学び舎である。早く来いと呼んでいるように思える...」
読み返すたびに心に響きます。
人は否応なく老いてゆくけれど、心のこもった言葉は永遠にみずみずしく、何年たっても古くはならないということがわかります。

1927年の卒業生が感じた母校への思い、それが88年の時を超えて今に伝わり、2015年の私たちの心に響く。これこそ、母校長浜北高の伝統の力です。
さらに未来へ、母校の歴史と伝統を伝え、未来の後輩たちにつなげていきたい!
そう切に思いました。




母校の呼び声 Kitakou Calling